勝利を手にした自由人
1974年のワールドカップ西ドイツ大会において西ドイツ代表が採用した4-3-3フォーメーションについての想定予想です。
モデルの想定・その他のケース
左図は、1974年当時における西ドイツ代表のスターティングメンバー想定です。主にワールドカップ西ドイツ大会の二次リーグ以降のメンバーになります。
当時、画期的な戦術的ポジションとされたリベロが導入されています。 リベロの創始者ともいわれるベッケンバウアーにバイエルン・ミュンヘンで相方を務めるシュベルツェンベックと、攻め上がりはほぼなくマンマーカーに徹する右サイドバックのフォクツ、超攻撃的左サイドバックと言われるブライトナーの4バックですが、実態としては3バック+ベッケンバウアーという形になるのでしょう。
中盤は今で言うアンカーになるボンホフに、攻撃的なドリブラーであるヘーネスとバランサーになるオヴェラートで構成されます。
センターフォワードのゲルト・ミュラーは体型的にパワー型のように見られがちですが、彼の本質は判断の速さによるポジショニングの上手さや何よりもゴールに対する嗅覚が優れている点です。
ミュラーを補佐するのは小刻みなドリブルと「ダイブ」が巧みで重要な場面で良くPKをもらうと言われたヘルツェンバインと、本来なら攻撃ミッドフィルダーですが中盤の層の厚さから右ウイングとして代表のレギュラーを獲得したグラボウスキの両ウイング。
GKのマイヤーは、ドイツ伝統の「世界的GK」の始祖ともいわれる名手。手足の長い古いタイプ(1970年代の選手だし、そりゃそうだ)のGKで安定感があるという感じではないのですが、重要な試合で大仕事してくれる事が多かったようです。
1972年に欧州選手権を優勝したときは、OHのネッツァーと当時はDHであったベッケンバウアーを中心に圧倒的な攻撃力で相手を粉砕してきたのですが、1974年はネッツァーがレギュラーから外れベッケンバウアーが1列下がってリベロに入った事で守備力があがりチーム的には攻守のバランスがうまくまとまっています。
リベロを採用しているため、守備戦術的にはマンマーク、攻撃はベッケンバウアーが後方からのビルドアップとバランサーのオヴェラートと連携して前線にボールを持ち込み、ミュラーを中心にFW陣が仕留めるという堅実な戦い方をするチームでした。
1974年当時の西ドイツ代表
監督は、西ドイツ人のヘルムート・シェーン。選手時代は第二次世界大戦前のドイツ代表としても活躍しており、戦後に東ドイツから西ドイツに亡命、引退後に指導者となり名将ゼップ・ヘルベルガーの下で西ドイツ代表コーチとなり、彼の後継者として1964年には代表監督にまで上り詰めています。
彼の指導の下、西ドイツ代表はW杯優勝1回準優勝1回3位1回、欧州選手権優勝1回、準優勝1回と輝かしい戦績を残していますが、後にドイツサッカー殿堂入りする彼の偉大な業績は他にも2つあります。
1つは、当時のサッカーで選手交代は怪我した選手や疲労困憊の選手を入れ替えるだけのものと考えられていたのに対して、その両方の理由以外、"戦術的に選手を入れ替える"という概念を構築したこと。
もう1つは、「リベロ」というポジションを代表チームに導入したことの2つです。
その名将が監督になってから8年目の1972年に欧州選手権優勝を果たした西ドイツサッカー代表でしたが、同じ年に西ドイツで行われたミュンヘン五輪で、パレスチナのテロリスト組織による選手村襲撃の影響もあり、1974年の西ドイツ大会では重厚な警備陣が敷かれ、代表チームもかなりストレスのたまる中で準備を進めていました。
開催国であることから予選は免除され、1974年最初の2試合はアウェーで強豪のスペイン、イタリアに負けたもののホームで危なげなく3連勝し調子を上げながら本大会に挑みます。
この大会では16チームが4リーグに分かれて戦い、1次リーグは上位2チームの8チームが2次リーグへ、2次リーグは首位の2チームが決勝戦を行うという方式を採用しています。
その一次リーグの相手はチリ、オーストラリアと、当時は第二次世界大戦の余波で分裂していた東ドイツの組み合わせとなります。
東ドイツと西ドイツが国際大会で戦うのはこれが最初で最後。
西ドイツはこの時点で、ワールドカップ(1954)、欧州選手権(1972)と国際タイトルを2つ取っていましたが、一方の東ドイツは当時アマチュアしか出れない五輪では銅メダルを2回獲得(のちに金1と銀1も獲得)していたものの、欧州選手権、ワールドカップでは予選も突破できず、1974年大会が結局唯一の本大会出場というチームです。
チリに苦戦したものの2連勝で迎えた東ドイツ戦、すでに1次リーグ突破が決まっているチーム同士の戦いになります。
前半は西ドイツが押していたものの点に結びつかずスコアレスで折り返し。 後半もなかなか得点が入らない状態になり、約5万人収容のスタジアムの大半(政治的な問題もあり、パスがおりた特別な身分の東ドイツ側観衆の約3000人を除く)から「ネッツァー」コールが起こります。
1972年の欧州選手権で、ベッケンバウアーと中盤でポジションチェンジをしながら、敵陣を切り裂くキラーパスを連発して優勝の立役者となっていたネッツァーは、この大会ではコンディション不良であったことと、ベッケンバウアーが彼の予測不能のプレースタイルにあわせるのを嫌っていたためスタメンから外されていたという背景があります。
後半24分、観衆の圧に負けたかネッツァーが投入されます。大いに盛り上がる西ドイツ側の大観衆。
しかし、後半35分、カウンターから東ドイツ側に得点が入り、スタジアム全体が一気に静まり返ってしまいました。
この試合でネッツァーの出来は可もなく不可もなし。失点も別に彼のせいではなかったのですが、よりによって東ドイツに負けたという事で"誰かが叩かれなくてはいけない"という世間の雰囲気から彼が戦犯扱いされ、当時世界最高の攻撃的ミッドフィルダーとされていたネッツァーのワールドカップ試合出場はこれが最初で最後。
しかしながら、この試合に負けたことで二次リーグは優勝候補のオランダ、ブラジルとは別組に入る事になります。 そのことからも、わざと負けたといわれる曰く付きの試合となってしまいました。
その二次リーグは、チリに苦戦し東ドイツに負けたことで同組のユーゴスラビアやポーランドの方が優勢ではとみなされてしまいます。 特にポーランドはミュンヘン五輪金メダルメンバーがほとんど代表に選ばれていた事と、一次リーグの戦いぶりからここにきてダークホース的存在と目されるようになっていました。
2連勝同士で事実上の準決勝となったポーランド対西ドイツ戦は豪雨で30分以上試合開始が遅れ、ぬかるんだ芝にドイツのフィールドプレイヤーたちが戸惑う中、ポーランドのラトー(この大会の得点王)に何度もシュートを打たれてしまいますが、GKマイヤーが好セーブを連発し無失点に抑え、後半31分に中盤の底から攻めあがったボンホフのラストパスをミュラーが沈めて決勝戦にコマを進めます。
決勝の相手は、この大会最大のスター、ヨハン・クライフ擁するオランダ。
開始2分でいきなりクライフの個人技に翻弄されPKを許し先制を許してしまいますが、このことがオランダの油断を誘い、前半のうちに2点を挙げて逆転。 また、マンマーカーであるフォクツがクライフを完封し、焦ったオランダも華麗なパスワークが鳴りを潜めパワープレイに持ち込みますが、それこそドイツの得意分野。
トータルフットボールという先進的な戦術で大会の花はオランダがさらったものの、質実剛健なドイツらしく優勝という実はきっちり収穫することになったのでした。
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