モデルの想定・その他のケース
上図は、2006年シーズンの浦和レッズについて想定予想のスターティングメンバーです。左が2006年シーズン当初の主力メンバー、右がシーズン終盤の主力メンバーです。
シーズン中に怪我人が多かった一方、選手層の厚さがそれをカバーできた事もあって、シーズン序盤と終盤とでメンバーが結構入れ替わっています。
得点王を取った1トップのワシントンやトップ下のポンテも、この年の中心人物として大活躍していますが、FWとして田中達也や永井秀樹らも結構試合に出ています。
攻撃と守備をつなぐバランサーに前半は小野がつとめていました。 が、シーズン後半はワシントン、ポンテ、小野と並べると前線での守備が期待できなくなるという事情もあり、監督の意向から右サイドから山田暢をコンバートしてバランサーとして使っています(その際、小野はポンテとトップ下で併用)。
左サイドの三都主は、この頃、代表では下がり目のサイドバックとして使われていたこともあり、若干守備に比重を置いていました。 右サイドは前半が山田暢、後半が平川と周囲との連動やポジショニングの上手いウイングバックです。
ボランチの2人とも守備をしっかりできるタイプで、鈴木がガツガツとあたりに行きボールを奪いに行き、長谷部はプレッシングや前線へのボール運びなどにその能力を発揮していました。
センターバックの中心は闘莉王。圧倒的な制空権を武器に、守備のみならず高い得点能力を持ち合わせ、しばしば前線に顔を出し、ヘディングシュートで得点を挙げるため、2006年もワシントンに次ぐチーム2位のゴール数(7G)を誇ります。
その他のセンターバックは、スピードある坪井、組織的で堅実な堀之内、サイドバックもでき安定感のある内舘、献身的でフィジカルコンタクトが強かったネネなどがいて、誰かが怪我をしても必ず誰かが穴を防ぐといったように、浦和の堅守を支えました。
GKは前半は身体的に優れたものを持った都築でしたが、シーズン中に怪我してしまったため、後半は読みやセービングなどに定評のあった山岸が正GKを務めました。
安定した守備ブロックを下支えに、ワシントン・ポンテの個の力を中心に手数をかけずにフィニッシュまで持っていくカウンター中心の堅実なチームスタイルです。このスタイルとホームでの圧倒的な強さによって、リーグ最少失点での優勝を果たしています。
2006年当時の浦和レッズ
監督は、ドイツ人のギド・ブッフバルト。現役時代は、長らくドイツ代表のレギュラーとして活躍し、ドイツ代表引退と同時に浦和レッズに移籍し、世界レベルのプレーを披露。「Jリーグのお荷物」であった浦和レッズに勝者のメンタリティを植え付けたとして、サポーターに愛される存在となりました。
浦和退団後はドイツに戻り、現役引退してから3年後の2002年に再び浦和レッズにテクニカル・アドバイザーとして復帰。2004年からは監督に就任するに至ります。
この頃の浦和はブッフバルト在籍時から、更なる改革が進められ、前年のナビスコ杯で優勝しチーム初タイトルを獲得するなど、強豪クラブへの下地を着々と築き上げている段階でした。
就任最初のシーズンで、2ndステージで優勝を果たし通年2位。ステージ制が廃された2005年も2位で天皇杯優勝と立て続けにタイトルを取ります。
そして、迎えた2006年。浦和レッズ史上初の3シーズン連続で監督を務める事になったブッフバルトは、新加入のワシントン、ポンテに攻撃の全権を与える一方で、その他の選手たちには強固な守備ブロックを意識させ、組織的なディフェンス網を作り上げます。
安定した守備とワシントン・ポンテの破壊力を武器に安定した戦いをリーグで披露する浦和に対抗したのは、攻撃的なスタイルを誇るガンバ大阪と川崎フロンターレでした。
特に、ガンバ大阪は最後の最後まで食い下がりました。 最終戦の時点で、浦和レッズはガンバ大阪との直接対決でもし3点差つけて負けたら優勝を逃がすという事態にまで迫られましたが、その最終戦はポンテ・ワシントンコンビの活躍で浦和が3−2で勝利し、念願のリーグ優勝を果たします。
また、天皇杯も連覇し、家庭の事情で退団しドイツに帰ることになるブッフバルトの花道を飾った浦和レッズは、翌年のACLで優勝するという偉業を成し遂げることになります。
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