ROAD TO FRANCE 1998
1997年のW杯フランス大会アジア予選で日本代表が採用した4-4-2フォーメーションについての想定予想です。
モデルの想定・その他のケース
左図は、W杯フランス大会アジア地区第3歳表決定戦、いわゆる「ジョホールバルの歓喜」における先発メンバーです。
2トップは、「キング」こと三浦知はほぼ不動ですが、もう1人が中々固まりません。 「ジョホールバルの歓喜」では中山雅が先発していますが、この時のアジア予選ではいわゆるスーパーサブの役割が多く、実際には城や呂比須の方が先発で多く出ています。
ボランチとして守備的な山口素、レジスタタイプの名波、ダイナモな北澤と三者三様の人材が、トップ下の中田英を支えます。
なお、名波、山口素は年間を通して不動でしたが、1997年序盤ではトップ下は前園や森島が務めることが多く、中田英が招集されたのは5月に入ってからのことでした。 また、北澤がレギュラーとして出ていたのは加茂監督解任(10月)以降の岡田監督就任後のことであり、それまでは本田泰が中盤の底に配置されるケースが多かったりしました。
サイドバックは、左が守備も攻撃も安定感のある相馬直、右はオーバーラップが多い名良橋と鹿島アントラーズの両サイドバックが入ります。 加茂監督時代は左に路木、右に中村忠や柳本を使うこともたまにありました。
センターバックは意外に固定できていません。 「ジョホールバルの歓喜」で先発していた井原と秋田がベースになっていますが、他には中西、斉藤俊、小村などが良く使われています(加茂・岡田ともに3バックでシステム組むことも多かったため)。
GKはほぼ全試合で川口が先発しています。ちなみに楢崎と川口が同時に召集されるようになったのはこの頃からです。
1997年当時の日本代表
監督は10月まで加茂周が務めていましたが、W杯フランス大会アジア最終予選の途中、韓国に敗れ、格下のカザフスタンにまさかの引き分けに終わるなど成績が振るわず解任され、後任にヘッドコーチを務めていた岡田武史が就任することになります。
「ドーハの悲劇」でW杯初出場を逃がしてからから4年。 さらに4年後には、日韓W杯開催の開催国としてW杯出場が決定しておりました。 つまり、「実力でW杯に1度も出場できなかった出場国」という汚名を回避するためには、このフランス大会のアジア予選を是が非でも勝ち抜かねばならなかったのでした。
日本サッカー史上で、W杯予選途中での監督解任は2014年現在までこのケースが唯一です。 これは、協会がプレッシャーに耐えかねた事により生贄を欲したと受け取ることもできますが、一方で韓国戦での選手交代や、カザフスタン戦での試合運びの失敗など加茂監督にもミスがあったことは事実なので、結局は世論もそれを支持し、最も判りやすい改善策を取ったということなのでしょう。
とにもかくにも、新たに就任した岡田監督。当初は、周囲も自身も暫定監督という立場なつもりでしたが、予選途中での就任というリスクを考えると、少なくとも予選期間中はそれまでチームに帯同してきた人物がそのまま監督を続ける方が良いだろうという結論に至ります。
最終予選のB組、ウズベキスタン、UAEと引き分けたもののアウェイの韓国戦に2−0で完勝。 グループ2位争いをしていたUAEが勝ち点を伸ばせないままでいたため、最終戦にようやく自力で2位になれる目が出てきます。 そして、最終戦を勝利し何とかB組2位に入り込み、A組2位であったイランとアジア第三代表決定戦にもつれこみました。
中立国マレーシアのジョホールバルで行われたアジア第三代表決定戦は、正に死闘。
日本が先制、後半にイランが逆転すると、すかさず日本が追いつくというシーソーゲームでVゴール方式の延長戦へ。 延長後半には、城とイランのGKアベドザデが交錯して、城は脳震盪、アベドザデは左肩を負傷し左腕の動きがぎこちない。
そのGKの負傷をうまくついたのが中田英寿。 延長後半も残りわずかとなった時、イランGKが負傷した左側へのシュートコースが開いたとみるとや、すかさずミドルシュート。 アベドザデが何とか負傷した左腕を広げるもののはじくのが精一杯。 そして、そのこぼれ球を、この試合2度の決定機を横パスしたりふかしたりで日本の期待を裏切り続けた岡野が滑り込みながら押し込む。
これにて、「ジョホールバルの歓喜」が成就されたのでありました。
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