日本1968
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 イタリア00
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 イングランド14
 イングランド2020
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 ウルグアイ02
 ウルグアイ14
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 オランダ88
 オランダ98
 オランダ14
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 スペイン12
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 ドイツ00
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 日本97
 日本00
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 バルセロナ04-05
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 バルセロナ14-15
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日本サッカーの分岐点

1968年のメキシコ五輪において日本代表が採用した5-2-3フォーメーションについての想定予想です。

モデルの想定・その他のケース

左図は、1968年のメキシコ五輪3位決定戦vsメキシコ戦で日本代表が採用したスターティングメンバーになります。

MFとDFはそれぞれハーフバック(HB)、フルバック(FB)と呼ばれ、サイドバックの攻め上がりも、よほど優秀な選手でないかぎりほとんどなかったような時代のフォーメーションです。

メキシコ五輪では全試合、システムとしては5-2-3で試合に臨んでいます。
世界に比べるとチーム力が落ちること、メキシコの高地で試合が行われ、しかも試合が中1日という過密日程に対応するため、中盤守備を捨てて、できるだけ動かず、最終ラインで人数をかけて守り抜き、手数をかけず攻撃陣の決定力に託すという戦略をとるためのフォーメーションでした。

フォワードの釜本と、左ウイングの杉山が攻撃の要になります。
釜本のパワフルな決定力の高さは抜群で、五輪の日本代表9得点のうち、7得点を彼が稼ぎ得点王に輝いています。
当時、彼の決定力はアジア中に知れ渡っていたため、アジア予選では釜本を囮に使い、杉山がスピードあるドリブルから切れ込みシュートを放つというシーンもしばしばみられ、アジア予選の最終戦では杉山のゴールが日本を救う事になります。

右ウイングは、松本か渡辺正が担当しますが、3位決定戦では松本が担当。二人ともハードワークが持ち味のタイプで、スピードこそないものの、守備の時は自陣深くまで戻り相手のパスコースを消す等の働きをしています。

中盤は、今でいうセンターハーフになりますが、攻撃的な役割としてテクニシャンなパサーの宮本輝、守備的な役割としてハードワーカーな渡辺が担当しています。
両者ともに、他の試合ではウイングやセンターフォワードを務めたりするなど、どちらかといえば攻撃的な選手であり、本来なら守備的な中盤の選手として八重樫がいましたが、彼が予選リーグ1回戦で負傷してしまったことにより、ハードワークできる渡辺がコンバートされ、さらに宮本輝もチーム戦略上、守備時には自陣深くまで下がる事になるため、できるだけ中盤は無視して、選手が動かずに済ませるフォーメーションであったにも関わらず、相当なハードワークをこなす羽目になっていたようです。

DFラインは4人のセンターバックと、最後尾にスイーパーを置く5バック布陣。

サイドの二人は、ともにスピードのあるタイプですが、サイドから攻めあがるというよりも、スピードを活かして相手に食らいついてマークするディフェンシブなタイプで、闘志あふれる山口が左に、クレバーな片山が右サイドを担当します。

センターバックの2人は、試合によっては今で言うアンカー、レジスタを務め、テクニカルなパス出しができる森と小城ですが、二人とも五輪の大半の試合ではマンマーカーのストッパーを務めます。
スイーパーに入る鎌田は、最後尾からマーカーたちと連携しながらボール奪取を担う役目で、統率力と判断力に優れたディフェンスリーダーでした。

最後の砦はPKストッパーとして名をはせた横山。GKにしては小柄な体格ながら、鋭い読みで相手シュートを防いできました。

1968年当時の日本代表

監督は長沼健。選手時代は、日本代表のW杯予選初ゴールを決めるなど、名FWとして鳴らしていた人物であり、後年、長らくサッカー協会の中枢に座して、Jリーグ創設にかかわるなど、日本サッカーの改革を進めてきた大物としても名高いです。

指導者としては、1962年に、当時現役選手だったにも関わらず、全く人気のなかった日本サッカーの改革ができる人物として大抜擢でいきなり代表監督。その後、11年間代表監督を務めますが、当時の代表監督は、日本協会の役職の一つでしかないため、事実上、無給(協会役員としての給料はもらってたようですが)だったようです。

後年、彼の後を受けて、代表監督、JFA協会会長を務めることになる岡野俊一郎コーチと、「日本サッカーの父」クラマーの指導に加えて、1964年の東京五輪のための集中強化による資金投入という恩恵もあり、日本代表は短期間に実力を上げて、東京五輪ではアルゼンチンに勝利するなどしてベスト8入り。ちょっとしたサッカーブームの到来を招いています。

迎えた1967年のメキシコ五輪アジア予選。18か国を3組のリーグに分けて1位のみ通過というシステム。

このころになると、エスストライカーの釜本が爆発的な覚醒を遂げることにより、チームも釜本と、海外クラブから20万ドルのオファーを受けた「20万ドルの左足」杉山を攻撃の中心として、残りは全員守備して、カウンターという戦術を確立させていきます。

初戦、当時はまだ日本のレベルも低いとされており、格下とは言い切れないフィリピン相手に釜本のダブルハットトリックなどで15−0と圧勝スタートします。

これで勢いに乗った日本は、中華民国、レバノンに連勝し、同じく3連勝スタートとなったこの組の本命、韓国との大一番に臨みます。

当時のサッカーの試合で日本新記録となる、5万人近い有料入場者数を国立競技場に集めたこの試合は、激しい点の取り合いとなり3−3で後半44分、韓国のFWが残り時間を気にしながら、後年「あと5mドリブルしていれば確実にゴールできたかも」と懐古していたシュートを放つもクロスバー。難敵相手に引き分けという結果に終わりました。

この試合で韓国と勝ち点並び、フィリピン戦の15点が大きく影響し、最終戦のベトナム戦は勝てば五輪代表という試合になります。
しかしながら、「勝ちさえすればよい」が「勝たねばならない」になってしまったか、釜本をはじめとして代表メンバーの動きが固く、なかなか点が取れない展開に。後半5分に、マークに苦しむ釜本からのこぼれ球を、杉山がゴールすることで、かろうじて1−0勝利。これで、日本代表のメキシコ行きが決まるのでした。

1968年のメキシコ五輪本戦。予選リーグはブラジル相手に引き分けるなど1勝2分で2位通過。

実のところ1位通過する可能性もあったのですが、決勝Tの相手を考慮して、2位通過するよう予選リーグ最終戦を引き分けに終わるように流しています。これは、後年の2018年ロシアW杯でも、日本代表は同じようなことをやっていますが、当時はそこまで話題になっておらず、国民は2位で決勝T進出したことを大喜びしています。

決勝トーナメント1回戦のフランス戦は釜本の活躍で3−1で勝利。
準決勝では最終的に金メダルを獲得するハンガリーに0−5で完敗しますが、3位決定戦の地元メキシコ相手に、奇跡的な勝利をおさめ、五輪銅メダルという日本サッカー史上の金字塔を打ち立てるに至りました。



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