究極のファンタジスタ、至高のリベロ
1994年にイタリア代表が採用した4-4-2フォーメーションについての想定予想です。
モデルの想定・その他のケース
左図は、1994年のアメリカワールドカップにおけるイタリア代表のメインメンバーを中心とした想定スターティングメンバーです。(※実際に、ワールドカップ期間にこの先発メンバーで戦った試合はありません)
「ゾーンプレス」をひっさげ、「グランデミラン」の礎を作ったアリゴ・サッキが、ACミランのメンバーを中心に作ったイタリア代表チームです(左図のメンバー中7人が当時ACミラン所属)。
当然ながら、チーム戦術もゾーンプレスをメインにしたショートカウンターが武器になります。
ハッキリとした攻守の要が1人ずつおり、攻め手は前年のバロンドール「ファンタジスタ」ロベルト・バッジョ、守り手は「ミラン史上最高のリベロ」フランコ・バレージ。 この両者を中心としたチーム作りが進められています。
バッジョが1.5列目にはいり、シャドーストライカーとして得点源となる一方、もう1人の相棒となるのはポストプレイヤーが多く、マッサーロとカジラギがその役目を担います。 ストライカータイプのシニョーリを使う事もありましたが、ワールドカップでは左ウイングハーフとして使われています。
ウイングバックは、色んな組み合わせが用いられて、左右どちらもできるドナドニが主に右のファーストチョイスで、左だと守備的でファイターなベルティ、攻撃的でスピードあるシニョーリが試合によく出ています。
司令塔にしてゾーンプレスの申し子でもあるアルベルティーニと、高い守備力と運動量でチームを支える「もう一人のバッジョ」ことディノ・バッジョ(ロベルト・バッジョとは別に血のつながりは無い)がセントラルハーフに構えます。
ディフェンスラインは、ワールドカップ当初は左図の4人で、全員がACミラン所属。 要となるリベロのバレージの他は、スピードがありセンターバックもできるマルディーニ、インテリジェンシーの高いコスタクルタ、ハードマーカーであるタソッティが担います。
ただし、グループステージで膝を怪我して大会中に手術までしたバレージは準決勝まで欠場し、タソッティは準々決勝での肘うちによる8試合出場停止処分以降は全試合欠場、コスタクルタは累積警告によって決勝は欠場するなど、全試合同じメンバーで戦えてわけではなく、センターバックにマルディーニが回ったり、右サイドにアポロッティやムッシ、左サイドにベナッリーボを使うなどして欠場選手の穴埋めをしていました。
最後の砦は、当時のイタリアを代表する名手パリューカ。グループステージ2戦目で、ワールドカップ史上初めてGKとして退場(1994年大会からGKが退場する可能性がルール上、生じるようになった)した選手となってしまいますが、2試合出場明けの準々決勝から再び先発し、最後の決勝までレギュラーGKとしてイタリアのゴールを最後まで守り続けました。
1994年当時のイタリア代表
率いる監督は、イタリア人のアリゴ・サッキ。 前述したとおり、「ゾーンプレス」を高等戦術として昇華させ、「グランデ・ミラン」の礎を築いた名将です。
1991年にミランの監督を辞任した直後、1992年の欧州選手権予選で敗退した責任を取って前任者が辞任したイタリア代表監督に就任します。
ミランで成功したゾーンプレスをひっさげて、華々しい活躍を期待されたサッキのイタリア代表ですが、ACミランの選手とそれ以外の選手で戦術浸透度に差が出てしまい、必ずしもうまく機能していたとはいいがたい状態でした。
また、1994年のアメリカ大会は、欧州のゴールデンタイムにテレビ放映をあわせるために、大半の試合を真夏のデーゲームで実施。さらに、MLBのオールスター戦を避けるために、準決勝の日程をずらしたり、サッカー専用スタジアムは設備が充実しておらず、大観衆を動員でき屋根がちゃんとついているなど設備的には立派なアメリカンフットボール用のスタジアムは、直射日光は避けられても、冷房施設が備わってない(アメフトは冬にシーズンがあるので)など、環境面でもコンディションを整えるのが難しい戦いを強いられる大会でした。
そんな事もあってか、アイルランド、ノルウェー、メキシコと比較的楽な組み合わせのグループに入ったにもかかわらず、いきなりアイルランド戦を0−1で敗れ、ノルウェー戦でバレージが負傷&パリューカがレッドカードで2試合出場停止を食らうなど苦戦続き。
グループリーグ3位になり、当時の規定で辛うじて決勝トーナメント入り(実質最後の16番目)するなど、らしくない状態でした。
そして、決勝トーナメント1回戦のナイジェリア戦は、後半43分まで0−1でリードを許す展開。 このまま、イタリア敗退濃厚の雰囲気を覆したのが、ロベルト・バッジョでした。 1次リーグでは、パリューカ退場時に控えGKを入れるために交代されるなど不振を極め、サッキの信頼を失いつつありましたが、この試合で後半43分の同点ゴール、さらに延長10分に逆転ゴールを挙げ、イタリアを1回戦敗退の危機から救い出します。
これによって波に乗ったか、準々決勝のスペイン戦では後半42分に勝ち越しゴール。準決勝のブルガリア戦では2ゴールを挙げる活躍を見せ、ついに決勝進出を決めるのです。
決勝の相手は、ドゥンガ・ロマーリオを擁し、W杯直前に事故死したF1レーサー、アイルトン・セナの弔い合戦に意気上がるブラジル。
大会中の怪我により手術を行い、出場は無いと思われていたバレージが復帰し、見事なラインコントロールを披露。バッジョを警戒してサイドバックがベタ引きしていたこともあり、孤立しがちであったロマーリオ、ベベットを完璧に封じ込めます。
一方で、イタリアの攻撃陣も準決勝を戦った東海岸のニューヨークから1日がかりで決勝の西海岸ロサンゼルスへ移動するなどの強行軍(ちなみに、ブラジルは準決勝もロサンゼルスだったので移動無し)を強いられた影響からか全体的に運動量が落ち込み、イタリアvsブラジルというサッカー強国同士の戦いにしては地味で消極的な試合展開になってしまいます。
そして、最後はPK戦。サッカーワールドカップ史上でも有名な結末がイタリア代表を待ち構えているのでした。
|