オランダ初のビッグタイトル
1988年において、オランダ代表が採用した4-4-2フォーメーションについての想定予想です。
モデルの想定・その他のケース
左図は、UEFA欧州選手権1988ドイツ大会決勝オランダvsソ連戦のスターティングメンバーになります。
図は決勝戦メンバーなので4-4-2のシステムですが、他の試合ではウイングのキーフトを入れてミケルス好みの3トップしている試合の方が多かったりします。
ミケルスの高い戦術能力についてこれるだけの選手達だけあって、どのポジションにいても常にスペースを空けないという約束事が徹底されており、システム的な配置よりも各選手のポジショニングの方が重要なフォーメーションです。
エースストライカーはファン・バステン。この年を含めて3回のバロンドールを獲得する希代の名ストライカーですが、この直前のシーズンは怪我がちで成績を残せておらず、EUROの初戦を欠場してすらいました。 2トップの片割れにはフリット(グーリット)、バステンに比べると運動量が多く、ストライカーというよりもトップ下を中心に場合によっては中盤の底まで下がってボールを受けるなどトータルフットボールに欠かせない選手です。
サイドハーフは左のクーマン兄はやや下がり目にポジショニングをとり、ジュビロ磐田にも在籍したことがある右のファネンブルクはピッチを広く使いタイプでした。本来、右ウイングにキーフトが使われている試合が多いため、どちらかと言えば、彼もややポジショニグは下がり目ですが、前にフタがないシステムの場合、彼も前線に顔を出してきます。
ボランチはリンクマンのミューレンと、ボール奪取能力の高いボウタース。この2人は攻め上がりは少なく、もっぱら中盤の底からサイドのケアを担当。
センターバックの2人はライカールトにクーマン弟とオランダ史上でも屈指のリベロ。隙あらば2人ともボールをもって攻撃参加も厭わないタイプです。そのためか、サイドバックの2人はやや守備的で、もっぱら攻撃時は空いているスペースを埋めています。ちなみに、キーフトがウイングで使われている場合は、3バックになり、その一角にはティーヘレンが使われます。
最後の砦はブルーケレン。PSVが欧州CCを優勝したときの正GKで、欧州CC決勝戦のPK戦やEURO1988決勝戦でもPKを止めるなどの活躍をしていますが、時には果敢に飛び出したり、足元の技術の高さも要求される「最後のDF」としてトータルフットボールの守備を引き締めます。
1988年当時のオランダ代表
率いる監督は、オランダの「巨匠」リヌス・ミケルス。つい最近、バロンドールのフランス・フットボール誌社からサッカー史上最高の監督として表彰されたほどの巨人です。
1965年に選手時代を過ごしたアヤックスの監督になると、「トータルフットボール」を引っ提げて、当時はぱっとしなかったアヤックスを2年で国内優勝、6年で欧州チャンピォンにまで引き上げる快挙を達成。 その後も、バルセロナやオランダ代表を中心に息の長い監督生活を続けています。
1988年は監督生活23年目、3回目のオランダ代表監督で就任3年目のシーズンとなります。
1970年代に輝かしい成績を残したオランダ代表も、1980年代に入ってからはW杯もEUROと3大会続けて予選落ちし大舞台から遠ざかる事態に陥っています。
その一方で、ミラントリオ(ライカールトはこの大会後に移籍)、クーマン兄弟、ファネンブルクと言った名手たちが育ち、代表に主力を複数送り込んでいるPSVアイントホーフェンが1987-88シーズンの欧州CCを制覇するなど、オランダサッカー界は過渡期にさしかかってもいました。
予選5組はギリシャ、ポーランド、ハンガリー、キプロスと比較的楽な組み合わせ。キプロス戦でオランダのフーリガンが発煙筒を投げ込み無効試合になるなどのアクシデントもありましたが無難に1位通過しています。
この年のEURO1988は、1位通過の7チームと開催国ドイツのみが出場でき、本戦は1リーグ4チームで総当たりし2位までが決勝トーナメントに出れるという仕組みでした。
初戦のソ連戦を落としてしまうものの、イングランド、アイルランドに連勝して決勝トーナメント進出。
準決勝で1974年のW杯決勝で敗れた西ドイツを破り、迎えた決勝戦は予選リーグの初戦で敗れたソ連が相手。
前半32分にフリットの先制ゴールが生まれた後、後半9分追加点が欲しい場面で、この大会の得点王となるファン・バステンが歴史に残るとも言われた技巧的なボレーシュートを決めて2−0。これで勝負あり。オランダ代表悲願である大舞台におけるビッグタイトル奪還となるのでした。
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