ウルグアイ1930
各フォーメーション
 アーセナル03-04
 アムステルダム94-95
 アルゼンチン98
 アルゼンチン01
 アルゼンチン14
 アルゼンチン22
 イタリア94
 イタリア00
 イタリア06
 イタリア12
 イタリア2020
 イラン97
 イングランド00
 イングランド14
 イングランド2020
 ヴァレンシア03-04
 ウルグアイ1930
 ウルグアイ02
 ウルグアイ14
 オランダ74
 オランダ88
 オランダ98
 オランダ14
 カテナチオ
 ガラタサライ99-00
 韓国99
 ギリシャ04
 クリスマスツリー
 クロアチア18
 コスタリカ14
 コロンビア13
 コートジボワール14
 スペイン00
 スペイン08
 スペイン12
 セネガル02
 スロベニア00
 チェコ03
 チェルシー04-05
 チェルシー14-15
 チェルシー16-17
 チリ98
 チリ14
 デンマーク86
 トッテナム18-19
 西ドイツ74
 ドイツ90
 ドイツ00
 ドイツ14
 ドルトムント11-12
 ドルトムント15-16
 ナポリ11-12
 日本68
 日本96
 日本97
 日本00
 日本01
 日本11
 日本22
 ネラッズーロ90-91
 ネラッズーロ09-10
 ノルウェー00
 バイエルン00-01
 バイエルン13-14
 バイエルン15-16
 バイエルン19-20
 バルセロナ99-00
 バルセロナ04-05
 バルセロナ10-11
 バルセロナ14-15
 パルマ98-99
 パリ12-13
 ビアンコネーロ84-85
 ビアンコネーロ95-96
 ビアンコネーロ02-03
 ビアンコネーロ13-14
 ビアンコネーロ16-17
 ビジャレアル05-06
 ブラジル82
 ブラジル94
 ブラジル98
 ブラジル02
 ブラジル06
 ブラジル14
 フランス82
 フランス00
 フランス04
 フランス14
 フランス16
 フランス18
 ベルギー13
 ポルト03-04
 ポルトガル00
 ポルトガル14
 ポルトガル16
 マドリード01-02
 マドリード11-12
 マドリード13-14
 マドリード21-22
 マドリードA13-14
 マンチェスターU98-99
 マンチェスターU07-08
 マンチェスターC11-12
 マンチェスターC20-21
 モナコ03-04
 モロッコ2022
 ユーゴスラビア94
 ユーゴスラビア00
 ラツィオ99-00
 リヴァプール04-05
 リヴァプール08-09
 リヴァプール18-19
 リヨン04-05
 ルーマニア00
 レバークーゼン01-02
 ロッソネーロ88-89
 ロッソネーロ98-99
 ローマ00-01
 ローマ07-08
 N-BOX
 浦和06
 大阪G08
 川崎18
 横浜M03
 webサカ2チラ裏
 Webサカ(PC版)
 コンテンツトップへ戻る


 銀狐のあんぱん屋
 トップへ戻る


世界への扉を開く始まりの大会

1930年の第1回ワールドカップ・ウルグアイ大会において、ウルグアイ代表が採用した2-3-5フォーメーションについての想定予想です。

モデルの想定・その他のケース

左図は、1930年当時のウルグアイ代表について想定予想のスターティングメンバーです。
この時期のサッカーは2バック、5フォワードが当たり前の時代で、ウルグアイ代表も2-3-5システムを採用しています。

スピードとパワーが重要なキック&ラッシュという大味なサッカーを繰り広げますが、そんな中でも右サイドハーフのアンドラーデは当時では珍しい黒人のスター選手。2バックと5人のFWの間をつなげる重要な役割を果たします。

FWの中では、インナーハーフと呼ばれる、今でいうところのセカンドトップにあたるスカローネが中心選手です。ウルグアイ代表として31ゴールを挙げていますが、この記録は80年以上ウルグアイ代表のトップスコアとして記録に残るほどでした。

守備の中心はセンターバックのナサシで20世紀の偉大なサッカー選手100人の1人にも選ばれており、フィジカルに強いタイプの選手でした。

1930年当時のウルグアイ代表

監督はウルグアイ人のアルベルト・スピシ。1924年、28年のオリンピックを連覇した後、若干29歳にしてウルグアイ代表監督に就任して、1929年のコパ・アメリカでまず3位に入賞を果たします。結果を先に記載していまいますが、第1回ワールドカップの優勝監督当時は31歳となり、これはいまだにワールドカップ優勝監督の最年少記録です。

そもそも、ワールドカップは1932年のオリンピックからサッカー競技が正式競技から外される(プロ選手が多いサッカーに対して当時はアマチュアリズムを重要視していたオリンピック委員会から正式競技としての意義を問題視されていた)ことになり、FIFA会長ジュール・リメを中心に何らかの別個の世界大会を必要としたことに端を発します。

ちょうど、建国100周年を迎えておおがかりな行事を必要としていたウルグアイに打診したのは、当時旅客機が飛んでおらず(旅客機が大西洋横断するのは10年後)船旅だけでヨーロッパや北中米、またアジアやアフリカ(この2地区は出場打診された国はすべて辞退)から選手団を集めるのにおおがかりな資金が必要になってしまい、状況的にそれを引き受けてくれる可能性がありそうな国がウルグアイだったということでした。

サッカー、特にFIFAは欧州の所属国が中心となって運営される傾向が強いため、この開催地は意外なものとなり、アジア・アフリカからは出場なし。またヨーロッパからの参加国も少なく、リメ会長が必死になって説得した4か国(なお、ルーマニアは当時の国王がイギリスにある選手たちの所属会社に外交ルートで働きかけて休暇を勝ち取るなどしています)のみが参戦ということになります。

そもそも、オリンピックではない世界大会という物自体がいまいちピンと来るところがなく、大会の成功も見通しがつかない中開催された世界最初のオリンピック以外の世界大会は、地元ウルグアイが活躍したこと、またウルグアイ政府が肝いりで作ったセンテナリオ(100周年)スタジアムに多数の観客を集めるなど、大成功したイベントとなるのでした。

なお、余談ですが、決勝はウルグアイvsアルゼンチンでウルグアイが4−2で快勝するのですが、アルゼンチンではこの直後、ブエノスアイレスにあるウルグアイ大使館が焼き討ちされ、それがきっかけてアルゼンチンとウルグアイは一時国交断交。その断交はその数か月後にアルゼンチンで発生する軍事クーデーターでアルゼンチンの政権が覆る日まで続くのでした。



Webサカ(PC版)コンテンツトップに戻る

あんぱん屋トップに戻る