世界への扉を開く始まりの大会
1930年の第1回ワールドカップ・ウルグアイ大会において、ウルグアイ代表が採用した2-3-5フォーメーションについての想定予想です。
モデルの想定・その他のケース
左図は、1930年当時のウルグアイ代表について想定予想のスターティングメンバーです。 この時期のサッカーは2バック、5フォワードが当たり前の時代で、ウルグアイ代表も2-3-5システムを採用しています。
スピードとパワーが重要なキック&ラッシュという大味なサッカーを繰り広げますが、そんな中でも右サイドハーフのアンドラーデは当時では珍しい黒人のスター選手。2バックと5人のFWの間をつなげる重要な役割を果たします。
FWの中では、インナーハーフと呼ばれる、今でいうところのセカンドトップにあたるスカローネが中心選手です。ウルグアイ代表として31ゴールを挙げていますが、この記録は80年以上ウルグアイ代表のトップスコアとして記録に残るほどでした。
守備の中心はセンターバックのナサシで20世紀の偉大なサッカー選手100人の1人にも選ばれており、フィジカルに強いタイプの選手でした。
1930年当時のウルグアイ代表
監督はウルグアイ人のアルベルト・スピシ。1924年、28年のオリンピックを連覇した後、若干29歳にしてウルグアイ代表監督に就任して、1929年のコパ・アメリカでまず3位に入賞を果たします。結果を先に記載していまいますが、第1回ワールドカップの優勝監督当時は31歳となり、これはいまだにワールドカップ優勝監督の最年少記録です。
そもそも、ワールドカップは1932年のオリンピックからサッカー競技が正式競技から外される(プロ選手が多いサッカーに対して当時はアマチュアリズムを重要視していたオリンピック委員会から正式競技としての意義を問題視されていた)ことになり、FIFA会長ジュール・リメを中心に何らかの別個の世界大会を必要としたことに端を発します。
ちょうど、建国100周年を迎えておおがかりな行事を必要としていたウルグアイに打診したのは、当時旅客機が飛んでおらず(旅客機が大西洋横断するのは10年後)船旅だけでヨーロッパや北中米、またアジアやアフリカ(この2地区は出場打診された国はすべて辞退)から選手団を集めるのにおおがかりな資金が必要になってしまい、状況的にそれを引き受けてくれる可能性がありそうな国がウルグアイだったということでした。
サッカー、特にFIFAは欧州の所属国が中心となって運営される傾向が強いため、この開催地は意外なものとなり、アジア・アフリカからは出場なし。またヨーロッパからの参加国も少なく、リメ会長が必死になって説得した4か国(なお、ルーマニアは当時の国王がイギリスにある選手たちの所属会社に外交ルートで働きかけて休暇を勝ち取るなどしています)のみが参戦ということになります。
そもそも、オリンピックではない世界大会という物自体がいまいちピンと来るところがなく、大会の成功も見通しがつかない中開催された世界最初のオリンピック以外の世界大会は、地元ウルグアイが活躍したこと、またウルグアイ政府が肝いりで作ったセンテナリオ(100周年)スタジアムに多数の観客を集めるなど、大成功したイベントとなるのでした。
なお、余談ですが、決勝はウルグアイvsアルゼンチンでウルグアイが4−2で快勝するのですが、アルゼンチンではこの直後、ブエノスアイレスにあるウルグアイ大使館が焼き討ちされ、それがきっかけてアルゼンチンとウルグアイは一時国交断交。その断交はその数か月後にアルゼンチンで発生する軍事クーデーターでアルゼンチンの政権が覆る日まで続くのでした。
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