今度はイタリア抜きでやろうぜ!
1990年シーズンにおいて、西ドイツ代表が採用した3-5-2フォーメーションについての想定予想です。
モデルの想定・その他のケース
左図は、1990年当時の西ドイツ代表について想定予想のスターティングメンバーです。
ゲームでは「ドイツ1990」というフォーメーションですが、1990年のワールドカップは東西ドイツが統一される直前の時期に開催されているので、西ドイツ代表最後のフォーメーションになります。
チームの中核を担うのは、ボランチとして攻守両面で舵取りを行うマテウスと、左サイドのブレーメです。
この時期、世界的に流行っていた3-5-2のシステムは、縦への意識が低く、中盤での潰しあいに終始するケースが多く、実際に1990年のワールドカップの評価が全体的に低いのも、そういう試合が多かったためです。
そんな中、1990年のドイツ代表は、マテウスのゲームメイクに加えて、サイドの深いところからクロスを上げたり、ときには中に切れ込んで自らシュートを打つブレーメの縦への突破力が攻撃にアクセントを加えていました。
高さのあるクリンスマンと足元の技術が高いフェラーの2トップに加えて2列目からの飛び出しを武器にするリトバルスキーが得点源。
この時期によくいた2列目を中心に動き回りピッチ全体をよく見て周りを使いこなすキラーパサーであるヘスラーが、マテウスと連携して中盤の組み立てに参加します。
攻撃的な選手としてはセンターフォワードの控えであるリードレ、トップ下の控えとしてトーンや、後に浦和レッズでプレーもするバインらがいました。
左のブレーメに対して、右サイドには主に守備的なベルトルト。ただし、ベルトルトは決勝トーナメント以降に抜擢されており、欧州予選やグループリーグでは「ターボ」と言われるほどのスピードを誇ったロイターが右サイドに入ってました。
守備陣は3バックで、真ん中のスイーパーとして堅実なプレーに終始したアウゲンターラーを中心に、コーラー、ブッフバルトらドイツらしく高さと強靭さを兼ね備えたタイプが壁となって立ちはだかります。
最後の砦はイルクナー。安定したセービング、ハイボール処理を武器に、「ドイツ代表GK=世界トップクラスのGK」という伝統を体現するような選手でした。
1990年当時のドイツ代表
監督は、1984年の欧州選手権後に代表監督に就任したフランツ・ベッケンバウアー。ドイツの「皇帝」と呼ばれ、選手として数々の栄光を手にした伝説的な人物ですが、代表監督就任は、現役引退して間もない時期であり、監督ライセンスを持っていなかったため、当初はチームシェフという肩書で指揮を執っていました。
監督就任後、選手時代に自身が嫌ったネッツァーのようなファンタジーな選手を外し、自分とウマがあったオフェラートのようなチームプレーに徹する堅実な選手でチームを作り、当時、この数年の中でも最も状態の悪かった時期にあった西ドイツ代表を見事に立て直しました。
1986年のメキシコW杯で準優勝、1988年の欧州選手権でベスト4という実績を残し、迎えた1990年のイタリアW杯。
欧州予選は、強豪オランダと同組に入り、無敗で2位通過します。
そして、迎えた本大会。西ドイツ代表に会場を味方につける幸運なめぐり合わせがやってきます。
本大会のほとんどの試合会場がミラノのジュゼッペ・メアッツァスタジアム。ここはインテル・ミラノの本拠地であり、当時、インテルにはマテウス、ブレーメ、クリンスマンがレギュラーとして所属していました。
決勝トーナメント1回戦では、当時ミランに主力が3人所属していたオランダとインテルvsACミランの代理戦争などもありましたが、ライカールトとフェラーが人種差別的なやり取りをした挙句、喧嘩両成敗で両者退場。この場合、2トップの片割れが退場した西ドイツに対して、代えの利かない大黒柱を失ったオランダの方が影響が大きかったようです。
そして、決勝戦は準決勝で地元イタリアを破ってしまったため、観衆を敵に回してしまったアルゼンチン。
さらに、会場のオリンピックスタジアムはASローマの本拠地で、ここにはフェラーとベルトルトの2人がレギュラーとして活躍していました。
会場の大半をずっとミランで戦ったため、移動による疲労が抑えられ、大観衆の大半が声援を送ってくれるという好環境。
堅実な試合運びだけでなく、幸運にも恵まれた西ドイツがイタリア大会を優勝したのは当然の結果であったのかもしれません。
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