株式会社・黄金郷
1999-2000年シーズンにおいて、イタリアのSSラツィオが採用した4-4-2フォーメーションについての想定予想です。
モデルの想定・その他のケース
左図は、1999-2000年シーズン当時のSSラツィオについて想定予想のスターティングメンバーです。
基本的には、組織的な守備ブロックを構築した堅守速攻のカウンターチームです。 2トップの布陣ですが、FWだけでなく中盤の選手たちも得点力の高い選手たちが控えており、どこからでも点が取れる布陣となっています。
そのどこからでも点の取れるチームの司令塔になるのが「小さな魔術師」ベロン。中盤やや下がり目の位置から、長短織り交ぜたパスで前線にボールを送り込みます。
ボランチはダブルボランチで、激しく狡猾な守備を身上とするシメオネがベロンをサポートします。ちなみに、シーズン序盤はアルメイダがその役目を担っていましたが、怪我がちであり次第にベテランのシメオネがレギュラーポジションを奪っています。
攻撃陣は2トップに、空中戦に強いサラスと、スーペルピッポの弟シモーネ・インザーギ。ともに爆発力こそないものの、決めるべき場所できちんと決めるストライカーです。
なお、フォワードにはボクシッチやマンチーニらもおり、彼らもまた職人的なストライカータイプです。
さらに、攻撃的なミッドフィルダーとして、中にサイドにと動き回り、ラストパスを出したり得点を上げたり、前線守備を行ったりする左のネドヴェドと右のセルジオ・コンセイソンがいます。
堅守を支える最終ラインの要は、このチームのキャプテンでもある若きバンディエラであるネスタ。相棒はフリーキックだけでこのシーズン6G上げるミハイロビッチ。
センターバックの控えにはフェルナンド・コウトや、シーズン終盤頃にベロンの位置をトップ下に上げた際、アンカーも務めたセンシーニらがいました。
サイドバックは、左がパンカロ、右がネグロで、共に攻め上がりは少なく(スピードに欠けるきらいがあり、上がると帰ってくる前に裏をとられやすい・・・)守備に重きを置くタイプです。左サイドの控えにはファヴァッリがおり、彼が先発するときはパンカロを右で使います。また、ネグロはセンターバックとしても先発することがありました。
この堅守のチーム最後の砦は、安定感のあるセービングをするマルケジャーニ。この頃くらいから衰えが見え始めて翌シーズンからペルツィにレギュラーを奪われますが、この時はまだレギュラーを確保しています。
各ポジションだけでなく、控えにも世界的名手がずらりと名前を連ね、エリクソンらしい組織的な堅守速攻で安定感のある戦いができるチームでした。
1999-2000年当時のSSラツィオ
監督は、スウェーデン人のスヴェン・ゴラン・エリクソン。 現役時代は無名の選手でしたが、指導者となってからスウェーデンのクラブチームを指揮し、1982年にはイェーテボリでUEFAカップを制覇するなどの実績を上げました。
その実績から、ポルトガルやセリエAの中堅以上のクラブチームの監督を歴任し、1997年にラツィオへ招聘されます。
当時のラツィオは、1998年にセリエAのチームとして初めて株式を上場し、株式会社化することで莫大な資金調達を行い、その資金で、世界的な選手たちを次々と獲得する金満クラブに変貌していました。
組織的な守備を行う堅実なチーム作りの上手い監督に、世界的な名手たちが揃ったラツィオは、1998年にUEFAカップウィナーズカップを制し、1999年には、トレブルを達成したマンチェスターユナイテッドをUEFAスーパーカップで下します。 迎えた1999年シーズン。ジダン、インザーギ兄、デルピエロ、ダーヴィッツ、ザンブロッタ、モンテーラ、ファンデルサールらがいるユヴェントスと、シーズン序盤から激しいデッドヒートを繰り広げます。
抜きつ抜かれつのシーズンでスクデットの行方は最終戦。勝ち点2差でユヴェントスが首位に立っていましたが、ペルージャにまさかの敗戦。 これに対してレジーナにきっちり勝利したラツィオが、劇的な逆転劇で26シーズンぶりの優勝を飾り、国内カップとの2冠に花を添えるのでありました。
「エルドラッド」株式会社ラツィオ
資金調達として、株式上場という手段を導入したのが、当時の親会社オーナーであったクラノッティ会長でした。
この当時、斬新な手法であった株式上場は、その後、何チームかが後追いするような形をとり、元から資金力のあったチームとあわせて「ビッグ7」とも「7シスターズ」ともいわれる、7大ビッグクラブがイタリアのセリエAで鎬を削る事になるのです。
その中でも潤沢な資金力による急速なチーム拡大を果たしたラツィオは「エルドラッド(黄金郷)」とも呼ばれるほどの栄華を誇り、特に1998年から2000年シーズンまでの欧州カップ、スクデットの獲得はその象徴とも言えました。
その栄華の裏で、資金繰りがうまく回っていた時代は良かったのですが、サッカーバブルの崩壊、親会社の業績悪化などが起こり、ラツィオは株式会社として市場価値を高める手段(スター選手の獲得とタイトル実績)を常に誇示しなくてはいけない状態に陥ります。
毎年来る決算期に向けて現金を調達する必要があるため、2001年には急場の資金をつくるためにネドヴェドやベロンやサラスを、2002年にはバンディエラとして手塩にかけて育ててきたネスタを、市場価値に比べると安く買いたたかれる形で他チームへ放出せざるをえなくなります。
当座の資金を確保したうえで、別のスター選手(デラペーニャやメンディエッタやクレスポなど)を獲得してきましたが、彼らがフィットしないという不運も重なり、チーム成績が落ちると株価も下落し、ラツィオは急速に資金繰りが悪化。
最終的にクラノッティ会長は2003年にラツィオを売却し、サッカーバブルに湧いた黄金郷は、その規模を縮小し、若手主体のこじんまりとしたチーム運営をする中堅クラブへと、その姿を変えていくのでありました。
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