ビアンコネーロ1984-1985
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世界1位・3位・4位の融合

1984-1985シーズンにおいて、イタリアのユベントスFCが採用した4-4-2フォーメーションについての想定予想です。

なお、ゲーム中フォーメーション表記である「ビアンコネーロ」とは、ユニフォームが「白(ビアンコ)黒(ネロ)」であることから呼ばれている、イタリアリーグのユベントスFCの愛称であります。

モデルの想定・その他のケース

左図は、1985年のUEFAチャンピォンズカップ(現在の欧州CL)決勝vsリバプール戦などでも確認されているユベントスのスターティングメンバーになります。

得点源は、中盤でゲームメイクしつつ自らもゴールを上げ、セリエAで3年連続で得点王に輝くフランスの「将軍」プラティニ。フランス代表のエースとして82年W杯4位、84年欧州選手権を優勝するなど円熟期を迎えて完成された選手となっておりました。

そのプラティニを2列目で支えるのが、82年W杯でそのプラティニ率いるフランスを破り3位に入ったポーランドのエースであるボニエク。
代表ではプラティニのように中盤でゲームの組み立て、ゴール前でストライカーというセカンドトップ的な役割をこなしてましたが、ユベントスでは無尽蔵のスタミナと華麗なパス能力を武器に中盤を支える立場に徹してました。

82年W杯の得点王でイタリア優勝の立役者であるロッシと、スピードで相手をかき回すタイプのブリアスキの2トップ。

ダブルボランチに、ともにダイナモタイプのボニーニとタルデリ。特にタルデリは前線にも飛び出すなど、ピッチを広く使えるタイプでした。

DFラインは、バレージをして超えることのできなかったイタリア史上最高のリベロと言われたシレア、イタリアの攻撃的左サイドバックの系譜ファケッティの後継者と言われたカブリーニと1982年W杯優勝のイタリア主力2人が中心となり、体は小さいが空中戦に強いブリオ、上りは少ないが堅実な守備が持ち味のファベロとともに手堅い守備力を発揮。

最後の砦に、長身のGKタッコーニ。晩年はジェノヴァで三浦知と同僚だったりもしましたが、この時期は陽気な人柄もあってチームでも有数の人気者でした。

プラティニとボニエクの華麗な連携にロッシの得点感覚のおかげで隠れがちながら、守備陣もかなり強固なメンバーを擁しており攻守に高いバランスを保つ強力なチームでありました。

1984-1985シーズン当時のユベントスFC

監督はイタリア人のジョバンニ・トラパットーニ。いかにもイタリア人らしい守備的なサッカーを好む監督で、結果は出せるがつまらないサッカーをすると評価されがちですが、このユベントスでは1976年から監督を10年の長きにわたり務めて、黄金時代を築き上げます。

この1984-85シーズンはユベントスを率いて9年目。前年にスクデットと欧州カップウイナーズカップを制しており、この年もリーグと欧州CCの両方を制する期待がされていました。

しかしながら、セリエAの方は大混戦に巻き込まれた挙句、エルケーアやジェンナーロの活躍によりヴェローナが優勝するという大波乱のシーズンとなってしまいます。

一方、欧州CCは、前年の覇者リヴァプールとともに本命におされて順調に勝ち進んでいきます。
準決勝はプラティニとともにフランス代表で「白銀の四銃士」を務めるジレスとティガナがいるボルドーに苦戦しますが、それでも2戦合計3−2で勝ち抜け、結局決勝戦はベルギーのヘイゼルスタジアムで予想通りにリヴァプールと激突することになりました。

決勝戦開始直前に起こった「ヘイゼルの悲劇」により、予定から1時間半遅れて試合開始。試合内容も重苦しいものとなり、リバプールが与えたPKにリバプール側も抗議せず受け入れます。
結局、このPKをプラティニが決めて、淡淡と試合が進み、1−0で終了。後味悪いものながら、ユベントスは欧州CC,欧州CWC、欧州Cと3つの異なる欧州クラブクラブタイトルを全て手にした最初のクラブとなるのでした。

ヘイゼルの悲劇

今もってなお欧州サッカー界最大の悲劇として名が残る「ヘイゼルの悲劇」。
それは、1984-85の欧州CC決勝戦の試合開始直前に起こった、フーリガンによる暴動とスタジアム圧潰による群衆事故でした。

1970年代後半頃から、船舶、飛行機の旅客運送が安価となるにともない一般人でも手軽に別の国へ行くことができるようになっていました。このため、欧州サッカーの客層も国内から国外に観戦しにいく者も多くなります。

この頃、1975年からの10年間で7度の欧州クラブ王者を排出するなどイングランドサッカーは欧州を席捲している一方で、国内のいくつかのクラブではフーリガン問題がはびこるようになります。

そして、上記の状況とあいまってこのフーリガンは欧州中を飛び回るようになり、いつしかフーリガン問題はイングランドサッカー界のみならず欧州サッカー界全体の問題となっていきます。
リヴァプールサポーターたちも、前年の1983-84シーズンの欧州CC決勝戦リヴァプールvsローマ戦でサポーター同士の暴力事件を起こし死傷者を出すなどしており、危険な一団としてマークされていました。

そんなことから、当日のヘイゼルスタジアムでもある程度の対策を立ててはいたのですが、試合開始1時間前から発生した暴動に対処できるほどのことはしていなく被害が拡大。最終的に39人の死者を出す惨事となってしまうのでした。

この事件の影響は大きく、のちにプラティニは「あの日からサッカーを楽しめなくなった」と言い、この事件から2年後に引退。
イタリア国内ではイギリス系の企業や学校への嫌がらせ、暴行、デモが行われ、イングランドのサッカークラブはこの時より5年(当事者のリヴァプールは7年)間、国際試合の参加禁止となり、それまで欧州サッカーを席捲していたイングランドのクラブが欧州の檜舞台で次にクラブ王者を出すのに15年以上の時間がかかることになるのでした。



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